【ネタバレ】結局、琅燦は何者なのか?(十二国記『白銀の墟 玄の月』感想/考察)

考察, 感想, 十二国記



十二国記の新刊『白銀の墟 玄の月』をやっと読破しました。
(いろんな意味で)本当に長かった……。新刊が出るまでの年月も、結末までの道のりも。

今作はあまりに多くの人が無情に散ったのが悲しかった。

──さて、本題。


玄管・耶利の主公の正体(考察)
『白銀』の登場人物一覧(参考)




琅燦は何者なのか

本作『白銀の墟 玄の月』において超重要人物の琅燦。
黄朱の出である(と思われる)彼女は、元々は驍宗の麾下でした。驍宗政権時は『冬官長』という、とっても偉い職に就いていた超エリートです。

そんな彼女は謀反を機に阿選の側に侍りますが、そのくせ公然と「驍宗様の方が格上だった」と阿選を見下します。
彼女の正体は一体何なのか?

仮説
  1. 耶利の主公説
    耶利の主公(主人)説です。
    白圭宮の内部に潜み、戴を救うため暗躍していた謎の人物=琅燦、という仮説。
    王朝内部の人事異動を密かに利用し、泰麒に耶利を侍らせた。
  2. 玄菅説
    阿選の下で働きつつ、内情を外部に漏らしていた玄菅=琅燦、という仮説。
    要するに阿選のもとに潜り込んだスパイです。
  3. とんだサイコパス説
    「すべては琅燦の社会実験だった」説です。
    驍宗を裏切ったのも阿選に力を貸したのも、すべて琅燦の知的好奇心によるもの、という仮説。
    「どういう理屈で国が動くのか実際にこの目で見てみたい」という彼女の個人的な欲望により戴を悲劇が襲った。

耶利の主公説

まずは耶利の主公説を検証。
泰麒の「耶利を遣わしてくれたのは、琅燦だったのではないのですか」というセリフから。
……でもコレ、あくまで泰麒の一方的な想像なんですよね。

泰麒は疑心暗鬼に近い状態で周囲を警戒していました。
そんな中、おそらく琅燦からは敵意を感じなかったのでしょう。他の官吏のような保身、無知、怠惰、媚び、阿選への崇拝──が、彼女からは一切感じられなかった。
醜い感情の渦巻く白圭宮の中で、おそらく唯一の異質な存在。それが琅燦だった。
だから泰麒は琅燦を敵と思えない。

泰麒が白圭宮にいると知っている人物で、尚且つ高い地位に就いており、阿選や張運に疑われることなく耶利を泰麒のもとに回せる人物。
それこそが琅燦であると泰麒は考えたわけです。

ちなみに耶利の返答は、無言。

ここからが個人的な考察。
耶利の主公は私は戴を救いたい。国を救い、民を救い、その頂点にある玉座に驍宗様にいていただきたい」と力強く言っていました。「国や民はどうでもいい」と言い放つ琅燦とは天と地ほどの差があります。
そもそも琅燦が本当に戴を救いたいと考えていたのなら、謀反に阿選に妖魔を与えたこと自体がおかしいんです。

阿選に妖魔を与えなければ、驍宗が生き埋めになることはなかった。
驍宗から玉座を奪った張本人のくせに「玉座に座るのは驍宗しかありえない」と断言するのは矛盾しているし、本気で言っているなら救いようのないバカです。そんなバカを耶利が主として認めるとは到底思えません。

また、琅燦は処刑場で「いつ頃からか、泰麒の周りで魂を抜かれる者が減った=角は完治していたのか」と驚いていますが、実際は耶利が次蟾(鳩)を狩っていたのが正解です。
琅燦が耶利の主公であれば当然こんな発想に至る訳がない。
そもそも戴を救いたい人物が泰麒の周りに次蟾を仕向け、それを放置した挙句、驍宗を救う重要な駒となる恵棟を見殺しにするのも変な話です。

よって、琅燦は耶利の主公ではないと考えています。
泰麒のセリフは本作最大のミスリードではないでしょうか。

個人的に耶利が否定しなかったのは「琅燦を庇ったから」ではなく、「自分に主がいること自体を隠したかったから」だと思っています。
耶利の主公が誰なのか、という謎の答えがハッキリ明示されていないため何とも言えませんが、とにかく耶利は主公について詮索されることを嫌った。だから否定も肯定もしなかった。
「私を動かしていたのは琅燦ではない」と言えば、「じゃあ一体誰が?」と項梁や李斎からしつこく追究されるでしょうしね。(笑)
また、耶利は「妖魔は基本的に麒麟の気配を嫌う」と言っています。
耶利は主公から『泰麒の護衛は項梁1人しかいない(=指令がいない)』ことを最初から伝え聞いていますし、王宮内にいる驍宗の王気すら今の泰麒には分からない、と知っても全く動じませんでした。
ということで、『泰麒の角が斬られていること』を耶利は最初から把握していたのだと(私は)踏んでいます。
その上で「麒麟の気配を嫌う」「泰麒と一緒にいれば一晩くらいなら問題ない」と断言していることから、次蟾を遠ざけること、症状を少し和らげること自体に角の完治は関係ないのではないかな、と考えています。

玄菅説

王宮の内情を秘密裏に外に漏らしていた玄菅。
「位が高く」「朱旌のネットワークがあり」「処刑の日は奉天殿の中にいて」「民を救うために暗躍している」人物です。李斎に青い鳥を飛ばしていました。

この玄菅こそが琅燦の正体ではないか?とも考えられるのですが、処刑場で琅燦と玄菅は同時に登場しているんですよね。
おそらく同じ空間の、少し離れた場所にいる。それを明示する文があるので玄菅と琅燦は別人でしょう。

追記

朱旌ネットワークは玄管には必須ではないですね。
玄管=耶利の主公(もしくは主公の協力者)である場合、玄管に朱旌との繋がりは必要ないですから。

玄管・耶利の主公の正体(考察)
『白銀』の登場人物一覧(参考)



とんだサイコパス説

好奇心旺盛な琅燦による、戴の国民を巻き込んだ社会実験説です。故にサイコパス。

琅燦は『好奇心旺盛で知識欲が強い女性』として描かれています。そして愛国心が全くない。驍宗のことは敬っているけれど、戴王を敬っている訳ではない。驍宗は驍宗、王は王で割り切っている。

彼女は黄海から戴に来て以来、様々なことを学びました。国の仕事を知り、冬器を知り、天帝のシステムを学んだ。けれど疑問は尽きない。
王と麒麟のいない──謂わば天帝の加護がほとんどない土地で育った琅燦にとって、天帝の意思に左右される『国』は非常に興味深いものだったのでしょう。
事実、琅燦は「驍宗様のことは尊敬しているが、興味には勝てない。私はこの世界と王の関係に興味があるんだ。何が起こればどうなるのか、それを知りたいと言っています。
私はこの言葉こそが琅燦の本音であり、悲劇の真相ではないかと思うのです。

『王と麒麟をめぐる摂理に興味があるが、誰も答えは教えてくれないからね。知るためには試してみるしかないんだ』
(琅燦 / 白銀の墟 玄の月)

別冊『図南の翼』でも散々描かれたように、黄朱は基本的にとてもシビアです。
主人への忠誠心はあっても国や民への情はない。物事の道理が分かっていてもそれに従う義理がない。
更夜や頑丘の「この世に王は必要なのか」という疑問は、きっと黄朱なら誰もが抱く疑問なのだと思います。王がいなくても生きていけることをその身で証明している彼らにとっては、天帝と王が織りなす摂理はとても奇妙で胡散臭く、その正体を暴きたいと思えるほどに壮大だった。

『いったいこの世に本当に王が必要なのか? 王を失えば災異を招くというなら、王なんてものは幽閉してしまえばいいんだ。政など行わせなければいい。そうすれば有益なこともできん代わりに、無益なこともできんだろう』
(頑丘 / 図南の翼)

図南の翼 十二国記 [ 小野不由美 ]
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また、『黄昏の岸(略)』で陽子が首を捻っていたように、天の摂理は呆れるくらい形式に拘っています。徹底的にマニュアル化されていると言ってもいい。それを琅燦も知っていた。
だからきっと、『イレギュラーな手法で王と麒麟が突然消えた場合、残された国は一体どうなるのか。その行く末を見てみたい』と考えたのだと思います。

……多分なんですけど、琅燦と全く同じ妄想をしたことのある読者って一定数いるんじゃないでしょうか? 少なくとも私は過去に何度か考えました(笑)

──とにかく、そんな琅燦が利用した手駒が阿選だったのではないでしょうか。

琅燦は非常に優れた頭脳と鋭い観察眼を持っています。
阿選の葛藤を早い段階で察していた琅燦は、阿選を唆し、彼に妖魔を操る術を教えて驍宗を襲わせた。
おまけに泰麒の角を斬るよう進言して、『何の罪もない王と麒麟が逆賊によって幽閉された場合、天はどう動くか』を社会実験した
失道で王を殺して『なかったこと』にするのか、それとも神秘の力で王を助けるのか、はたまた荒廃する国を見捨て、永遠に知らぬ存ぜぬで押し通すのか。
そのあたりを琅燦は知りたかったのだと思う。

琅燦は天帝が敷いたマニュアルの不備を突いた。法律の抜け穴を潜る犯罪者のように、天綱に載っていない不測事態を天がどう対処するか見守った。
『黄昏の岸(略)』で陽子が言っていたように、天も間違えることがあるのだ。天の摂理は絶対じゃない。
黄海育ちの琅燦はそのことを漠然と理解していて、その真偽を確かめなければ気が済まなかった。──好奇心が抑えられなかった。

だから戴で起きた前代未聞の悲劇は、すべて琅燦の知的好奇心による産物なのだと思う。

強いて言うなら十二国の王なら誰もが通る『最初の試練』が、驍宗の場合は『琅燦』だったのだと思います。
阿選は災厄の象徴でしかない。災厄の種は、阿選ではなく琅燦だ。

驍宗は阿選の心情を全く理解していなかったけれど、それだけでは阿選は暴走しなかった。勝手に一人で悩み苦しみ、劣等感や孤独感に苛まれていただけで。
そんな阿選を謀反に突き動かし、国の荒廃を進めたのは間違いなく琅燦です。
では何故そうなったかというと、驍宗が黄朱の思考回路を正しく知らなかったからではないかな、と。

「朱子という人々がいて、彼らはそもそも浮民であり、国の荒廃が彼らを浮民にした。それを泰麒にも知識のうえだけでもいいから理解してほしかった」

……と驍宗は考えていましたが、その朱子(黄朱)が驍宗たちとは根本的に異なる価値観を抱いているのだと知らなかった。
そもそも、常識外の環境である黄海で生まれ育った人間がいることを、驍宗は知らない。

だから王になってからも黄朱との交流を続けたし、臣下が黄朱と関わることも止めなかった。

十二国で生まれ育った人間にとって天帝は絶対です。民を導く王は何よりも尊く、王というだけで国民全員の主になる。それが絶対的な常識であり、心の底からそう信じている。
けれど黄朱にはそんな価値観がない。天帝への疑問もたくさんあるだろうし、陽子のように一歩引いた場所から天の摂理を眺めて「何かおかしい」と首を捻ることも多々あるのだと思う。でも、驍宗はそれを知らない。

というか、珠晶は黄朱への『尊敬』がかなり大きいことに対し、驍宗の場合は『憐れみ』が大きい気がする。
もちろん驍宗も黄朱の知恵や生き方を尊敬しているだろうけど、「そんな過酷な環境に身を置かなくても本来なら豊かな国で過ごせたのに」という同情が彼の根底にある気が。
珠晶は「王様になれなかったら黄朱になりたい!」「みんな黄朱になれば良いのよ」とサラッと言っていましたが、驍宗は違う。このへんの対比が面白いな〜〜、と思いました。
▼△ちなみに終盤で琅燦が泰麒を助けたことに深い意味があるのかは疑問です。

琅燦が知りたかったのは『天が驍宗を助けるかどうか』、ただその一点だったと思うんです。
ラストシーンの処刑場において、驍宗の死は確定したも同然でした。少なくとも誰もがそう思っていた(泰麒ですら死を覚悟していた)。
それなのに泰麒が自らの意思、自らの手で殺傷を犯す異例の事態を生み出したこと、失ったはずの角が完治し見事に転変したことで、その場にいた誰もが驍宗に手を出せなくなり公開処刑は失敗に終わりました。

きっと「やられたな」と言った時点で琅燦の中で決着はついていたのでしょう。天は驍宗を助けた。それが答えです。
この先どんなに阿選が足掻いても、どんなに妖魔を使役しても、天は必ず驍宗を助ける。これにて証明終了。社会実験は終わり

だからもう琅燦が阿選に付く必要はないわけで、無意味に驍宗や泰麒を殺す必要もない。
そもそも驍宗のことを尊敬していた琅燦は最後の最後で驍宗の助けになるよう計都を連れてきた。そうしたら泰麒が落下したので計都に助けさせた。
それだけの話ではないかな、と思います。

嫉妬説:
『天帝(泰麒)に驍宗を取られたことへの嫉妬説』を作中で阿選が唱えていますが、琅燦自身がその指摘に驚き「最高に面白いよ」と馬鹿にしているので違うと思っています。

泰麒の角について

琅燦は「泰麒の角はどこかの段階で治っていた」と踏んでいましたが、個人的には違うと思っています。

泰麒が驍宗の王気を感じたのは処刑場に着いてからですし、角が完治していたなら指令を呼び戻さない理由がない。西王母に頼らなくても、完治さえしてしまえばちゃんと指令を縛れますからね。でもそれをしなかった。
そもそも完治していたのなら、わざわざ耶利の前で剣を振るわなくても転変して驍宗の前に駆け寄れば事足りたんです。事実、転変後は誰も泰麒を止められなかった。でも、それをしなかった。
「今日まで苦難を耐えてきた民を絶望させるようなことは、絶対にしません」と断言した泰麒が、『確実に民と驍宗を救う方法(転変・指令)』よりも『驍宗共々死ぬかもしれない方法(自力で脱走)』を優先したのも不自然です。

つまり泰麒の角が治ったのは驍宗に会えたからではないかな、と思うんです。
饕餮を指令に下せたのも、初めて転変が出来たのも、全ては驍宗が理由でした。驍宗を守るため、驍宗を王にするため、泰麒は奇跡の力を起こした。

『魔性の子』『黄昏の岸(略)』でも同様のことがありました。
記憶を失くした泰麒に奇跡を起こしたのは転変した廉麟です。彼女の姿を目にしたことで、泰麒は麒麟として再び覚醒した。
だからきっと、今回の泰麒も驍宗に出会い「よくやった」と労われたこと(驍宗としっかり目が合い、「あとは任せろ」と言わんばかりに力強く頷かれたこと)がトリガーとなって角が完全に癒えたのではないかな、と思います。

『私は、麒麟として持っていたはずの奇蹟の力を悉く失くしました。喪失したからこそ、奇蹟ではない現実的な何かで、戴を救うために貢献しなければなりません。』
(泰麒 / 白銀の墟 玄の月)

この泰麒の言葉こそが本作の重要なキーで、麒麟』という神秘の存在でありながら、現実的な男子高校生の側面も持つ『高里要』の頭脳戦が『白銀の墟 玄の月』の醍醐味でもあると私は思っていて。麒麟らしからぬ泰麒の言動を「面白い」と楽しむ耶利は読者代表みたいなものだな、と(笑)

そういうメタ的な面白さを考えると、やはり「泰麒の角は早い段階で完治してたんだよ☆」というオチになると「じゃあ散々描かれていた"麒麟の肝要"は一体何だったの?」「なぜもっと早く、確実な方法(麒麟の力)で驍宗を助けなかったの?」という話になってしまう訳で。
……ということで、個人的には『泰麒の角は完治していなかった』のだと思っています。




改めて感想

琅燦のことだけでこんなに長い記事になってしまった……(苦笑)

個人的に今作は『人間と麒麟の両方の性質を持つ泰麒の物語』だと思っているんですが、それと同時に『異なる主に従う兵士たちの物語』だったな、とも思います。

まず前者。
泰麒の「麒麟っぽくなさ」は圧巻でしたね。麒麟の性に意志の力で逆らい続ける。
その根底には驍宗への強い忠誠心があるのは当然として、『魔性の子』で描かれた残虐な悲劇が背景にあるのも切なかったです。

本来、麒麟は誰からも忌み嫌われない。けれど泰麒は忌み子だった。問答無用で慈しまれる愛の生き物なのに、酷い差別や侮辱を受け続けた。自分のせいで身内が続々と死に、巨大な蝕で甚大な被害を出した。
──これらの罪悪感や絶望を泰麒は一生忘れない。だから、強い。

『風の海 迷宮の岸』で、泰麒は事あるごとに例外として扱われていました。
特に気になるのが「麒麟は自国の国民性も引き継ぐものなのに、泰麒は戴の野蛮(笑)な気質を全く受け継いでいない」という描写。しかし驍宗だけが当時から泰麒のことを「恐ろしい子供」と認識していました。

多くの人は泰麒のことを純粋無垢で人懐っこい子供だと思っていたから(普通の麒麟だと思っていたから)、成長した泰麒の変貌ぶり、異質ぶりに驚愕して慄きます。
そんな中でただ1人、驍宗だけが『耐え忍ぶに不屈、行動するに果敢、それが戴の気質。それを泰麒もしっかりと受け継いでいる』と認識し続けていたことが尊いです…!

驍宗は『これぞ戴の麒麟』、琅燦は『化け物』と泰麒を認識していました。この差よ……(笑)

ちなみに耶利は『面白い御仁』と認識していましたが、項梁から「耶利の口から語られる台輔はまるで驍宗様のようだ」と聞かされてからは『面白い御仁』から『自分が仕えるべき戴の麒麟』に認識が変わったように思います。
あの瞬間、おそらく耶利は主公が驍宗を慕う理由を正しく理解し、それと同時に戴国の王であり泰麒の主、かつての主公が認めていた驍宗のことを認めたのだと思うので。

▼△どうでもいいですが、この数年間で驍宗は人当たりが丸くなり泰麒が尖ったように描かれている=戴の未来は安寧、とも読めるのが凄く良いな、と思います。
そもそも驍宗の王朝で一番危うかったのは驍宗の苛烈さと泰麒の人の良さ(騙されやすさ)だったので、それが払拭できたからには長く続く朝になること間違いなし。最後のイラストがなくてもそう読めます。最高。

そして後者、『異なる主に従う兵士たちの物語』について。

いや〜〜〜〜! 苦しかった!!!
阿選の麾下の恵棟・友尚はめちゃくちゃ推したいし、ただひたすら実直に働いていた品堅と帰泉、駹淑、伏勝も推せる。でもみんな悲惨な末路で悲しい。
阿選に召されて歓喜していた帰泉に(内心では阿選に猜疑心を抱きながらも)「よかったな!」と言ってやりたくて、でも帰泉は明らかに阿選のせいで病んでしまって、挙句捨て駒として呆気なく死んでしまった。
人情に篤い杉登と品堅の喪失感は如何程のものか。ほんと、本当に辛い…!

そして恵棟。

『私は──私の主には、弑逆などという非道に手を染めてもらいたくなかった。やむを得ぬ事情があるなら、まず麾下を説得してもらいたかった。もちろん、事前に計画を知っていれば私は止めました。主公に罪人になどなってもらいたくはなかったから。それでもなお仕方ないのだと説得してほしかったし、主公がそこまで言うなら仕方ないと納得したかった。そのうえで、同じ罪を背負って、せめてもの罪滅ぼしに国と民のために働きたかった。その全て──ただの一つも残さず、何もかもを阿選は踏み躙った』
(恵棟 / 3巻P.368)

↑からの、「この国を見てください!」だよ。
「罪人側にいながら、どこか自分は巻き込まれた被害者のような気がしていた。──今もしている」っていう言葉が本当に切ない。
そして「阿選を王とする天が許せない」「絶対に認められない」と涙ながらに渾身の訴えをする恵棟には、本当に幸せになってほしかった……

「何の罪もない人々を殺すのが、ずっとずっと嫌でした」って泣き始めた友尚の麾下も辛い。
友尚も友尚で、良い人ぶる夏官長の叔容に「お前は自分の手を血で染めていないだけ」「民にとっては俺たちも残虐非道な兵士に変わりない」と痛烈に言い放っていたのが印象的。

追記:
何度目かの読み返してを経て、「いやいや今作は戴の国民全員が主役の話だろ」と考え直しました。
職や出自、性別に年齢。何もかもが異なる人々が皆必死に祈り、守り、闘う。それこそ軍人から土匪、子供、女性、老人……一切が関係なく。

『耐え忍ぶに不屈、行動するに果敢、それが戴の気質』

今作に登場した国民は、皆(烏衡らを除く)が不屈で果敢でした。
特に鄷都の一件からの怒涛の展開は……ウッ(涙)

個人的なMVP

個人的に、今作のMVPは「驍宗に供物を捧げていたお父さん」「亡き姉との想い出が詰まったお手玉を流した少女」だと思います。

過酷な環境下で生きていた彼らは、長女が餓死したのに、本当は川に流さず家族で食べたいのに、泣きながら貴重な食物を川に流していました。少女はそんな父の想いを感じ取り、「私も何かしてあげたい」とお手玉を流します。
その理由は、彼らが轍囲の民だったからです。
先祖や故郷を救った英雄を弑逆した阿選が許せなかった彼らは、亡き驍宗への感謝と敬意を込めて供物を捧げ続けました。
そんな彼らの供物があったからこそ驍宗は長く生き延びれたし、騶虞を狩ることが出来た。

結局のところ、今作のキーポイントは全て轍囲にありましたね。

驍宗が『轍囲の乱』で不戦勝をしたことにより、阿選は自分の独り相撲に気付いて絶望します。
(このとき阿選が抱いた羞恥心や孤独感、なんとなく分かります。)

一方で、驍宗が天啓を得たのも轍囲の乱があったからだろうな、とも思うのです。
軍人でありながら武器を一切振るわず、けれど驕王の命令通り最後にはしっかりと倉を開けさせた。本当は倉を開けたくない民が泣きながら驍宗に折れたシーンはグッときました。
暴力に物を言わせて高圧的に民を従えるのではなく、牙を隠して腹を見せ、情に訴え続けた驍宗に胸を打たれます。

そしてそんな驍宗を暗い地の底から救ったのは、泰麒でも李斎でもなく轍囲の民でした。

3巻を読むまでは「誰かの助けがないと驍宗は何もできない」と思い込んでいただけに、自力で壁を掘ったり騶虞を捕まえていたのには笑いましたね! さすが王。
でもそれは驍宗1人の力ではなくて、もう何十年も前に助けた轍囲の民の篤い恩義で成り立っていたんですよね……。胸アツ。

改元された暦が『明幟』なのも轍囲の民と関連していてしんみりします。
もちろん明幟の由来は白幟だけでなく途中から轍囲の民以外も加わった墨幟の人々の想いを汲んでのものですが、やっぱり最初の始まりは轍囲なんですよね。
尤も、墨幟のデザインをしたのは驍宗と同郷の鄷都であり、彼の並並ならぬ人徳や驍宗への尊祟を思えばこそ、『明幟』が示す彼らの尊い忠義や仁義の功績が暦を通して戴国全土に未来永劫染み渡るのが感無量です。

耶利ちゃんも凄いぞ

「MVPは轍囲の親子です!」と言っておいてなんですが、彼らの存在だけでは最終的に驍宗は助からなかったかもしれないんですよね。

処刑場で驍宗を助けられた最大の理由は「泰麒が小臣の剣を盗んで彼らを斬ったから」です。
誰もが麒麟は争いを厭う慈悲の生物と思い込んでいたからこそ、泰麒は阿選らの度肝を抜くことに成功し、驍宗の前に馳せ参じることが出来た。

でも実は泰麒は過去に一度、剣を使って人を殺そうとしています。正頼を助けるときです。
あのとき初めて泰麒は逆上し、「正頼を見殺しにできない」と項梁と耶利に必死で訴えました。耶利が初めて感情的な泰麒を見た瞬間です。
耶利は「正頼を助ければ、泰麒が人を傷付けることが出来ると阿選たちに知られてしまう」と指摘しました。その指摘にハッとした泰麒は、ようやくその場を離れる決心をします。

ここで耶利が泰麒を止めていなければ、阿選は厳重すぎる警戒体制で泰麒を監視していたでしょう。
処刑場の救出は泰麒の奇襲が功を奏した結果に過ぎません。今作において耶利の存在は本当に大きかったと思います。鳩の始末もね。



タイトルの意味

タイトル『白銀の墟 玄の月』ですが、ここに記された『白銀の墟』は間違いなく白圭宮のことだと思っています。
“墟"とは一文字で"荒れた跡"という意味を持ちます。鳴蝕により派手に崩壊し、王の不在により未だに再建されていない白圭宮はまさに『白銀の墟』です。

確か作中でも項梁か巌趙が白圭宮を「廃墟のようだ」と独白で例えていましたから、これは間違いないかと。
あとは驍宗様の白髪にも掛けてるのかな、ともぼんやり思ったり(これはオマケ程度)。

で、『玄の月』。

月といえば普通は金色です。
それなのに敢えて『玄』で表すのは、「普通は金色だけど黒色をしている」泰麒と掛けているようにも思えます。それに今作において泰麒は荒廃した暗い大地を照らす月、まさに希望の道導ですしね。

例えば李斎が驍宗を救うため四苦八苦していたとき、彼女の心情は『先の見えない真っ暗な絶望』として表現されていました。
でも阿選に立ち向かう算段がついたとき、暗闇を一筋の光が射す描写があった。そういう戴の国民がそれぞれに抱いた、暗闇を照らす微かな希望の光を『月』で暗喩した──ということも考えられます。
その希望の光を『玄の』とあえて金色から変えたのは、前述のとおり黒麒の泰麒をイメージしてのことかと。

ちなみに『玄月』で旧暦の9月を指します
驍宗が阿選を討ち、宮廷を整えたのは戴国の暦で10月です。
旧暦の9月は新暦の9月下旬〜11月初旬(つまり10月)を指すので、『玄月=驍宗が玉座に帰還した日』と読むこともできます。

個人的にはこの『玄の月=泰麒、玄月=正しい王の帰還』のダブルミーニングこそがタイトルの真意じゃないかな、と思っています。

追記(途中修正)

第1巻に、ご丁寧にも『蓬莱とは暦が一月ほどずれている』との記載がありました。
「こちらの11月は蓬莱の12月にあたる」と泰麒が述べています。つまり、十二国は旧暦で確定です。

番外編や後日談でもない『白銀の墟 玄の月』内で、わざわざ暦の話を持ち出し、蓬莱と十二国との違いを明文化している。
これこそが最大の伏線では……!?と一時はめちゃくちゃ興奮しましたが、う〜〜〜ん。

戴国の10月=旧暦の10月=蓬莱の11月です。
玄月(9月)とは重なりませんね!!!

よって『玄の月=玄月=驍宗の帰還日』は間違いっぽいです。無念。

さいごに

驍宗様最高〜〜〜っ!
前々から「自分は部下から慕われていないのでは」と不安になったり、幼い泰麒が「驍宗には天啓がなかった」と悩んでいる事を知って「それでも私は王だろうか」と景麒に問うたり、人間くさい一面も描かれていましたが……いやあ! 驍宗様いいですね!!!

一向に助けに来ない泰麒に失望するのではなく、「助けてやれず、済まない……」と本気で落ち込む姿よ。最高の上司、いや主人。そりゃ初対面の騶虞も惚れますわ(?)
処刑場まで助けに来た泰麒の無茶にも動じることなく、一瞬で全てを理解して「よくやった。もう良い」と労う姿勢がほんと! 素晴らしい主人で王様だなあ、と。だからきっと泰麒も感極まって転変しちゃったんだろうな……。
麒麟の姿になった泰麒が、驍宗に首を押し付けてたのが愛おしかったです。

あと泰麒の「先生……」と広瀬に縋るところ。グッときた。
泰麒にとって蓬莱での6年間は本当に地獄だったと思うんです。そんな泰麒に広瀬だけが寄り添ってくれた。
戴にいれば『麒麟だから』という理由だけで李斎らに優しくされるけれど、泰麒が本当に欲しいものってそういう優しさじゃないと思うんですよね。泰麒は賢いから「李斎らが自分に優しいのは、自分にそれだけの価値があるから」と正しく彼らの善意を理解しているはず。だからこそ、その優しさが寂しいときもあるんじゃなかろうか。

たぶん、泰麒にとって広瀬は唯一「何の利害関係もない親愛」を向けてくれた人だと思う。
もっとも、広瀬自身は泰麒を通して「ここは俺の居場所じゃない」と現実逃避をしていたに過ぎない訳だけども、そういうエゴすら泰麒にとっては可愛らしいものだと思う。(笑)

そういう意味では、「麒麟だから敬う」のではなく「泰麒の人格に惹かれたから敬う」耶利は泰麒にとって唯一無二の大切な存在になっていくのかもしれない。それはそれで最高の関係だなあ、という妄想に耽ったりしています(知らんがな)

以上!
玄管の考察やら何やらはまた今度。
玄管・耶利の主公の正体(※長文注意)

『白銀』の登場人物一覧など




考察, 感想, 十二国記